現在の本堂は1802年に当山十八世禅翁実参(ぜんのうじつさん)和尚様が再建されました。
棟梁は出雲崎大工 小黒七左衛門で、今でも新潟中越地域には、
彼が棟梁となって建てられた古い本堂がいくつか存在しています。
本堂内の襖には石川雲蝶が絵を施しています。雲蝶は絵師としての才能も発揮しています。
また、大廊下の床板には瓢箪や木の葉などの形をした埋め木(うめき)が施されていてこれも雲蝶の仕事です。
鐘楼は、開山堂と同時代の1850年に建立され、熊谷の小林源太郎作の彫刻が施されています。
源太郎は雲蝶と並ぶ彫刻の名手で、47歳のとき熊谷から越後入りをしています。
雲蝶より10歳近く年上の源太郎は、越後では雲蝶の兄貴分だったようです。
(栃尾市秋葉神社には、源太郎と雲蝶合作のとても素晴らしい彫刻が遺されています。)
梵鐘は、新潟の土屋忠左衛門の鋳造で、三十三体の観音像が模られています。
また、天皇のお許しの証である『勅許(ちょっきょ)』の銘があることから、
戦時供出時に重要美術品と認められ、供出除外と指定されてお寺に帰ってきた名鐘です。
昔は時を知らせるために撞かれていた寺の梵鐘ですが、今は年に一度、除夜に撞かれています。
当寺には山門が二つあります。
最初に参拝者が通る第一山門は、朱色に塗られていることから通称赤門とよばれています。
この赤門は白門より以前に建立されていますが、時代は不明です。
地元の郷土研究者によると、坂戸城の門の一つを移築したのではないかという説もあります。
もしかしたら上杉景勝や直江兼続が幼いころこの門をくぐり遊んでいたのかもしれません。
赤門の前に立つ、雲蝶作の二つの石碑。
右側の火除地蔵はこの村を火災から守っています。
左側の『禁葷酒(きんくんしゅ)』と刻まれた石碑は、禅宗の山門に立ち戒めを説くもので、
葷とはにんにく、韮類のことをいいます。葷や酒を食した直後に山門に入ることを禁ずるという意味で、
山内の清浄を汚してはならないという戒めの言葉です。
当寺第二の山門である白門は、開山堂落慶の翌年、安政五年に建立されました。
ここにも雲蝶は作品を残しています。
門扉には龍が取囲むように彫りこまれ、左右に仁王像が安置されていました。
(現在、雲蝶作の仁王像は開山堂内に移設されています。)
しかし150年以上の風雪、大雨、そして度重なる地震の影響で
山門の地盤が狂い、建物の歪み老朽化が激しくなってきました。
そこで、平成22年に改修工事を行い現在の姿に生まれ変わりました。
山門の仁王像は仏師山本桃楓(長岡市在住)作です。
本堂の右棟が庫裏(くり)で、拝観・朱印受付となっています。
庫裏(くり)とは、寺に暮らす人たちの生活スペースのことで、台所やトイレ、居間などがあります。
当寺の庫裏は本堂より古く、200~300年前に建てられたと伝えられています。
玄関を入ってすぐの吹き抜けには以前は囲炉裏があり、長い冬はここで暖を取り、煮炊きをしていたようです。
雲蝶もこの炉辺に座り、酒を飲みながら独り構想を練っていたという言い伝えがあります。
現在は囲炉裏を床下に収納し、お土産売り場となっています。
お守りや写真集など置いてありますのでどうぞお立ち寄り下さい。
石川雲蝶の銅像は平成23年、石川雲蝶生誕200年の記念事業として建立されました。
これは、開山堂内にある木彫の「鬼退治の仁王尊」を製作中の姿です。
雲蝶は、人物像や写真などの資料がまったく残っていないとてもミステリアスな天才彫刻師ですが、
この度は雲蝶末裔6代目でいらっしゃる酒井謙介様にご監修を頂き、
限りなく雲蝶そのひとに近づくことができました。
大庭園の奥へと入っていくと、小高い山の登り口に辿り着きます。
その坂道を上っていくと、小さな紅い鳥居の奥に、
赤城大明神・子安地蔵尊・子授け神様が、木立の中にひっそりとお祭りされています。
赤城大明神(あかぎだいみょうじん)は当寺の山号である赤城山(せきじょうさん)の守り神です。
子安地蔵尊、子授け神様と共に、子宝安産祈願、お子さんの健やかな成長を祈願、
また悲しくも先立たれたお子さんのご冥福をお祈りいたしましょう。